これまで多くの子供たちとかかわって来ましたが、時として教える立場にとって印象深い子がいるものです。彼らはいろんな特徴や個性が溢れていますから全ての教え子たちをいつまでも忘れずに鮮明に覚えておくことなどできません。しかし、その個性のインパクトが強すぎて忘れられない子がいるのも否めません。
子供の個性はさまざま、育てるのは親
負けん気の強さの表れでもありますが、叱られれば叱られるほどヤル気を出し、いつもの倍くらいの力を発揮する子がいます。逆に、自分に誇れるものがないために叱られると萎縮する子もいます。また、褒められるといい気になって怠ける子もいます。褒められたことを励みにして、伸びていく子もいます。そして、土壇場になって力を出す子、いつもサボることなくコツコツ頑張って力を蓄える子など子供達の個性は実に様々です。
子供が百人いれば百通りの性格があるでしょう。このような子供一人一人の特徴や個性、適正などを見つけ出しそれぞれにふさわしいアドバイスをすることは、親にしかできないのでは、と思います。実力のあるなしをいつまでも教育談義の話題にしている場合ではありません。大切なのは、その子に最も適した実力のつけ方、実力を発揮する方法を発見することです。できない子は本来力がないのではなく、その子に合った勉強の仕方がまだ見つけられていないと考える方が的確でしょう。
親は子供の可能性に強い信念を持つ
わが子に実力をつけさせたいのであれば、自分の子供は必ず力があるんだ、やればできるんだという強い信念を持つことです。そして、その力はいつかは必ず身を結ぶと信じて冷静に見守って欲しいと思います。
子供を否定する前に子供にとってふさわしい勉強方法を見つける
子供にとって、できが悪い、ダメな子と親に見放されるほど悲しく辛いことはありません。人間が、独力で自分の能力を切り開くには、大変な努力が必要であることは周知の事実です。親に否定されるレッテルを貼られた子は、その瞬間から実力を身につけ発揮する機会を失うことになるのです。親はもっと子供の潜在的な力を信じるべきです。そして、わが子にはどんな勉強の仕方がふさわしいのか子供と一緒になって情報の収集に務めて欲しいと願っています。
前向きな気持ちに変われる精神面の強さ
このような本来の親として取るべき態度に気がつかない親が、わが子の実力をないがしろにしてしまっているのです。親としての責任を感じながら子供に接していると、仮に受験に失敗しても早めに気持ちを前向きに切り替えられるほど精神面が強化されることもあるのです。受験に失敗したからこそ今この幸せがあると言えるようになりたいものです。
実力を発揮する時期は一様ではない
ところで、人は一体、人生のどの時期に頑張って最高の実力を発揮すれば幸福になれるものなんでしょうか。人生の晩年になって、やっと長年の成果を発揮するのでは時すでに遅しということになるのでしょうか。特に、過去に偉人と呼ばれる人たちの功績は年老いてから認められることも多かったようです。
がんばる時期は早い方が幸福であるということはない
偉人たちの足跡を振り返れば、受験勉強と人生を重ねて関連性の強いものとして考えがちな現在の私たちは、何か間違っているような気がするのは私だけでしょうか。受験で実力を出せずに合格できなかったからと言って何を嘆くことがあるのでしょう。長い時間をかけながらやっとの思いで結実する人も多くいます。もちろん、順調に早くから結果を出す人もいます。しかし、その時期が遅いより早い方が幸福な人生を送れるという保証は全くないということも現実であることをはっきりと認識することが重要です。
力があるなしはその人の足跡の結果で評価する
実力がある人ない人という言葉や比較は、結果として後でわかるものです。つまり、行う前からその人について実力の有無やできるできないを軽々しく評価するものではないということです。その人が人生の貴重なものを費やして何をしたのか、周りの人たちからどれだけ尊敬されてきたのか、このような観点で評価されるのが正しいと思います。
人が持っている実力はその人の生きざまを測る「目安」でもある
現代のような、目まぐるしく多忙な時代に生きるためには、若いうちから力を発揮しておかないと、社会はその存在を認めてくれないかもしれません。だからと言って、大器晩成、人生の後半あたりから底力を示す人たちの扱い方を誤ると、彼らに備わっている本当の力を壊してしまうことになりかねません。一生という人生のとても長い道のりをどのように生きたのかその生きざまが、人の実力を測る目安になるのではないかと思います。つまり、このように考えることができれば、受験に失敗したことは辛かったけど、その失敗を経験したからこそ今の満足があるというような考え方もできると思います。