[協調性」。この言葉が、今とても大切にされています。
親は、わが子の友達関係が気になって仕方がありません。いじめられていないだろうか?のけ者にされていないだろうか?と悩みが尽きない親は少なくありません。
この「協調性」というものは、人間性のとても重要なファクターの一つなんですが、いつどこでどんなふうに誰によって身につくのでしょうか。まさか、自然発生的に体得できるものではありません。やはり最初の植え付けは家庭での躾に起因するのでしょうか。
「協調性」は子供達が今を生きるビッグキーワード
私は、このような協調性偏向の考え方が気になってしかたありません。確かに、友人と遊べる、他人と強調しあって何かができる、ということは生きて行く上で重要な能力でしょう。
しかし、そればかりを大切にし、それだけ守っていさえすれば何とか生きて行ける、不安がることなく平穏に暮らして行ける、と考えるのならそれは大変な間違った解釈であると言えるでしょう。
横へ倣えはどんぐりの背比べ
社会で生きて行くために必要なのは、最初に一人の個人の確立です。つまりは、一人で生きて行く力、と言ってもいいと思います。それがあってこそ、真の協調性が生まれるのだと思います。
まず一人で考え、自分で解決できなければ仲間に助けを求める、それが理想であると確信します。多くの親は、子供の友人関係を気にするあまり、一人という部分を見逃しています。
平等の仲間内に我が子を閉じ込め、そこからはみ出ると途方に暮れてしまう、という弱々しい子供を作ってしまっているのです。
対大人
例えば、大人との対応にしても、子供達としか遊べない子供は、知らない大人に自分一人で対応すると、どのように行動していいのかわからなくなってしまいます。
子供同士の作る世界があり、子供と大人が作る世界があって当然なのに、その子は友達同士という一つの世界しか知らないのですから、大人とどう付き合っていいのかわからないのです。
逆に、
一人遊びができる子供はどうでしょう。もちろんすべてそうであると言えませんが、案外すんなりと大人の社会に飛び込めるような気がします。
なぜなら、その子は友達というとっかかりが特にないですから、大人と向かい合ってもたいして抵抗がありません。
単に、子供と大人であると同時に、年の離れた人間同士という関係になるのかも知れません。大人と出会い、きちんと挨拶ができる子が少なくなってきたそうした背景があるのではないでしょぅか。
友達同士で何人も連れだって行動する子たちにその傾向は特に顕著に見られるようです。大人から声をかけられてもお互いに顔を見合わせニヤニヤするだけです。
どのように対応していいのかがわからないといった態度がありありとうかがえます。
受験勉強は妥協なし
特に、受験勉強は孤独の戦いです。協調性がまかり通る場ではありません。よく、友達と一緒に勉強するからと仲良し同士が部屋にこもることがありますが、そのような勉強方法が必ずしも効果的かどうかは私には疑問です。
お互い学力の異なる者が集まってそれなりの効果を期待できるはずがありません。必ず妥協が生まれます。
勉強とは、結局は一人でやらなければならないものなのです。例え友達と机を並べたとしても、頭の中の思考力を友達と共有するわけににはいかないのです。
そのように考えると、友達と遊ぶことも大切ですが、一人で遊べるということも大事であると声を大にして言いたくなります。
本番の試験の場においては、正しく孤独の戦いの場です。誰も助けてくれません。頼れる友達は誰もいません。そんな時、友達の世界に甘えてしまっていた子供は、かなりのマイナスを背負っているといえないでしょうか。
入学試験は、子供達にとってはいわば未知の世界に飛び込む試練と言っていいでしょう。積極性を発揮して知らない世界に飛び込もうという姿勢を持てるのは、一人であることに耐えられる子供のほうであると考えます。
友達と遊ばないからと言って不安になり、一人遊びしかできないと心配する、このような親のどっちつかずの主体性のない態度が問題です。
どちらか一方だけを重視してはなりません。日常生活の場では友達を大切にし、いざ机に向かうと一人の世界、この両方を使い分けられる子供に育てたいものです。