エナジェティックに!子供の健やかな成長
を願って汗を拭き拭き、がんばって!
1.比較が先か、競争が先か?
世の中、ここかしこで大なり小なりの競争の氾濫です。概して、競争は、己と他人の何かを比べ相手より優越になること。従って、比較がなければ競争はありません。
確かに、人類の今日の進歩である比較と競争に良因することは確固たる事実です。
しかし、人間の不幸もまた比較と競争が悪因であることも否定することはできません。
強いて、そして勉め(努め)させるもの?
受験競争も周知のとおりです。子供の成績の程度に目を凝らし、上昇か下降か横ばいかを探り、結果的に親として子供に勉強を強要する。
子供は、勉強を自発的ではなく強制的に強いられるために反転として結果のみの一喜一憂にこだわり、奮わなければ自分がみじめになり本来持ち合わせているはずのやる気が萎える一方です。
他人と競争する時、それが公正でありそれとともに相互の人格を高めるものであればよいとしても、単に自分の優越を煽り自己満足に帰する類は愚行です。
これはご家庭におかれても躾の一環として諭して下さい。
2.木の上に立って→遠くから、見る→観守る、それが
「親」
肢体が不自由な児童や生徒の学校では、
昨日2歩歩くことができたから今日は3歩歩こうと少しずつ確実な進行を勧めるそうです。
親や教師はあえて子供から離れ一歩だけの前進を遠巻きに祈る気持ちで見守ります。
そして、足が動くごとに感涙の喜びを共有するのです。
不自由さを懸命に克服する子供の一挙手一投足を期待と不安が交錯する複雑な面持ちで見つめながら、普通に歩く子供を比較や競走の対象としてかんがえる親はいません。
ただ前日よりちょっとでも歩けることのみを必死に願うのです。
子供自身も同じです。他人との勝ち負け意識は毛頭ありません。正に、自分自身との戦いであり、競争であり、昨日の自分と今日の自分の一日違いの比較なのです。
3.泰然自若な自分づくり
競争は、その時の気持ちのなせる業であると思います。絶体絶命の土壇場で他人と比べて頑張ろうなどと思う余裕はありません。
背水の陣に浸り、ただひたすらより良い高い強い自分との競争に努めるはずです。
誰でもない。今日は昨日の自分に勝つぞ、の一念がひいては他人との競争にこだわらない実におおらかで泰然自若な筋金入りの自分へと導くのではないでしょうか。
4.「這えば立て、立てば歩めの親心」
思い出して下さい。「這えば立て、立てば歩めの親心」の時代。
愛するわが子の少しの変化や進歩が驚きであり喜びであり感動が連続する日々を。這える子供を他と比べ、立てる子供を他と競争させる親はいません。
そこに、存在するのは唯一、比較や競走を越えてわが子のみの成長に目を細める本来の親心です。
子育ても教育も焦りは禁物です。子供の成長のペースを見取りながら助言することが他大切です。
5.「安心も過ぎれば呑気まぁええか」
さてさて安心と不安はいづれも程度もん。両者の調和が肝心。安心ばかりでは真夏のキリギリス、それ見たことか的な結果を生じ、また不安フルな心に自信が宿ることはありません。
いずれも能率の良い行動の妨げになることは明白です。
6.「どうしよう募る不安で金縛り」
須らく、不安がる子供が落ち着きの持ち合わせがないままソワソワソワソワを繰り返す一歩で、妙に安心度の高い子供の行動は希薄な計画性の下、ばくち的な取り組みや気分のムラが目立ちます。
およそ子育てにおいて、親と子のほのぼの暖かいかつ確かな接触こそ心の安定感の基本であり、子供の向上心を大きく作用する学習環境の要です。
つまり、例えば学習において、安心に裏打ちされる子供の精神的なエネルギーを真っ向から勉強に注ぐことができるのです。
結果的に成績の向上や勉強に対する好き嫌いがセーブされます。
尤も、安心度が高すぎる場合はこの限りではありません。文字の間違いなんて序の口、宿題も忘れ放題、時間も気にしない、ましてや将来のことなんてこれっぽちも考えないほどののんびり屋。
不自由のないめぐまれた家庭環境にありながら、無為な日々を過ごすことは子供の本来備え持つ努力する気持を失い、まあええか何とかなるやろとのんびり度は増長するばかりです。
7.不安感は実は、立派な警戒心
多少の不安感を持って、文字のミスはないか宿題のやり残しはないか、明日の授業の準備はできているかなど基本的な心構えを早めに持つべきです。
換言すると、警戒心を持つことが必要です。
最近では、多少の不安を持つ子供の方が成績は良いとさえ言われています。