心の拠り所とは何?って3日間考えた私の答えは何とケーキづくりだった

 あ~あ、つらいなあ~、だるいなあ~、しんどいなあ~。こんな憂鬱な時、思わず心の拠り所って何だろうって考えることはないですか?

 毎日の生活の繰り返しの中で、誰だって一度や二度は(いや、ほとんど毎日?)こんな気持ちに陥ることありますよね。

 さらに、その時の嫌~な感情を払拭できないままズルズルと引きずるからストレスとして抱えることになるんですよね。スカッと吹き飛ばして身も心も軽やかになれる方法はないのでしょうか。

 こんな時こそ人には誰でも「心の拠り所」的癒しスポットが必要です。どんなに辛いことや苦しいことがあっても、ホッと気持ちが安らぎ新たな気力が沸いて来るというような場所です。

 その場所が自分の得意なもの、特技や趣味でもいいのです。一つだけでもあれば十分なのです。特に子供の場合は、自ら好きなものや熱中できるものなど何でもいいんです。それを見つけられるように導いてあげることが大切です。

 親は子供が夢中になるものを見極める

 これまで何回となく親から次のような悩みを相談されたことがあります。子供が勉強は嫌いだが、クラブ活動は人が変わったみたいに熱心取り組んでいる。この姿勢を勉強に向けてくれることを願っているという内容です。

 当の子供本人は、そのクラブをこれからも続けたいという強い意志があり進学先も関連した学校へ進みたいという希望を持っています。

 ところが、家庭では、子供の希望に反対する親、特に母親と口ゲンカの毎日を過ごしているそうです。

 私が母親に反対する理由を尋ねると、いくらクラブをがんばっても社会人になった時、経済的な生活ができるという保証がないから、安定した会社に入ってくれる方を望むということです。

 その相談に対して私は、「勉強という一面だけで子供を見れば親として悩むかも知れませんが、勉強以外の別なクラブ活動に懸命に打ち込んでいる現実も理解してやるべきです。」と答えています。


 居場所があることは子供の成長の原動力

 やることなすこと全てを器用にやりこなせる優れた人間なんて極めて少ないです。たとえ勉強ができなくても、その子の居場所になれるもの没頭できるものがあるだけで幸せなんです。

 クラブでも何でも子供がこれは好きだというものがあるということが大切です。それは子供の成長にとって必要な支えなんです。それを取り上げる権利なんて親にはありません。子供のやりたいことをさせてやって下さい。

 肝心な勉強も適当にこなすだけでは将来何をしたらいいのか迷いやすくなりがちです。子供が熱中する姿勢が社会で大きく成長できる原動力になるということを知っておいて下さい。

 何か一つ他より抜きんでるものを体得

 考えてみて下さい。なぜみんな、全てのことにいい成績を取りたいのか、私にはそれが未だによくわかりません。それが社会の風潮による影響からなのか、人としての向上心に起因するのかまだ納得できる答えを得ていないのが現状です。

 好きなものに囲まれて人生を過ごせたらどれほど楽しいだろうと考える子供は多いでしょう。そんな子に限って、他の科目より好きな科目だけが飛びぬけて成績が良かったりします。

 しかし、親はいい科目はそっちのけで、悪い科目を話題に上げ小言を連発します。何もかも一様にできるより、何か一つ抜群にできる方がどれだけ将来性があるのでしょう。

 拠り所があるということは専門家になるための必然である

 そんな子には自分の拠り所があるのです。自分が生き生きとできてますます力が沸いて来る世界です。そして、将来の夢や希望を具体的に説明することができます。

 人は大人になれば、いつまでも学ぶだけの学生ではないのですから、自分に何かしらの仕事を身につけ、それの代償としてお金を払ってもらわなければなりません。

 従って、子供の時から何か一つ秀でていることは、既に専門家としての芽が見え始めていると思います。社会人になれば必然的に何かしらの専門の知識を学ばなけれなならないのですから。

 たった一つの小さな自信が大きな力になる

 平均点が悪いことを気にするより、何か一つ誰にも負けないほどのものを身につけることで、子供に自信を持たせてやって下さい。それがある限り、子供は自信のない暗い落ちこぼれ的な存在にはならないでしょう。

 たった一つの、そしてほんの小さいものでも、それが自信につながった時こそ、その子にとって大きな実力になるでしょう。

 人は誕生以来すでに実力は備わっている、実力のない人はいない

 確かに、「実力」という言葉は適切ではないかもしれません。あるいは間違いなのかも知れません。

 世の中には無用な人間はいません。どんな人間でも価値がありきっと何かの役に立つはずです。人それぞれに、意味を持って生まれてきていると考えます。

 そうであれば、実力のない人間はいない、どんな子でも実力を持っていると考える方が正しいと思われます。

 しかし、現実に生きている私たちは、人のことを、できるできない、役に立つ立たないと本当に簡単に区別し、結論を出しがちです。

 たとえ、力があるとわかっていても、それをはっきりと形あるものとして見れないために錯覚してしまうのです。

 人間関係においても、区別した方が面倒にならないからという理由も考えられます。

 子供の本来の資質を開花できない責任は親にある

 しかし、少なくとも親は親である限り、そんな区別の仕方など家庭に持ち込むべきではありません。

 大勢の人間を便宜上区別するために必要であれば仕方がないですが、親子間でできる子できない子という決めつけ方はしてはいけないと思います。

 特に、子供にとって最も身近な人間である親がわが子を、できない子として決めつけるとしたら、それはわが子を否定するだけにとどまらず、親自らを親として否定してしまうことに他なりません。

 もし自分の子ができが悪いと考えるなら、それは本来の資質が欠けているのではなく、持っている素質を開花させてあげる方法を知らなかった、または間違えていたにすぎないと考えるべきでしょう。

 仮に、間違えていたとしたのなら、その責任は親にあると言っても過言ではないと思います。

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