「教える」ということは「伝える」ことなんです。
「教える」ということは、第三者を介して知識や技術を「伝達する」ことです。
英語を教えるということは、例えば(1)語彙力を増やしそれを強めるための単語の知識と(2)それらを駆使しながら英文を読むという技術を伝えることです。
あるいは、数学を教えることも同様、数学の公式類に関する知識を伝えそれをやりくりしながら問題を解くという技術を伝えることです。
これは、古今東西、主に先生と呼ばれる第三者に任されています。
「育てる」ということは「待つ」ことなんです。
一方、「育てる」ということは全く違う働きを意味します。例えば、庭先の柿の木を早く伸びてとばかりに直接引っ張ったり揺すったりすることは決してしません。
日の光が十分当たるように、そして雑草を取り除き必要な水と肥料を与え手厚い世話を施します。そして、ひたすらじっと待つのみです。
これらの世話を吸収しながら背丈を伸ばすのは他でもない当の柿の木自身です。
が、「子供と正しい親子関係」について今さら聞けないという親は本当に多い
ようです。
しかし、子供との関係づくりも全く同じです。
子供の身長を伸ばそうと誰が子供の首を直接引っ張りますか?
私たち親ができることは、適当な運動を勧め、安眠用の寝床を作り栄養のある食事を提供することだけなのです。
それを利用しながら背を伸ばすのは子供自身なのです。
良好な親子関係は、「共感する」こと
心の問題であれば、いわゆる「情操教育」と言われるものも、単にピアノや絵を習わせるだけで育つものではないと思います。
一緒に音楽を聞いた上で、いい音楽だったね、あるいは時間を共有しながら見た後で、いいドラマだったね、と話し合うことが共感を生むのです。
これらはどちらかと言うと、親子の関係の中では自然と生まれがちです。
親子とは、主に感情を仲立ちとした関係です。だからこそ そこに共感が生まれます。
(おこげもあればこれまた、より、もちらしい!)
さて、「やる気」と言う代物は、教えるべきものか育てるものか。やる気を育てるとは言われますが、教えるとは耳に不慣れです。
基本は、親子の関係を暖かく維持しながらまるで網の上のもちを焼くようにじんわりと親子の中で育てるのが一番のような気がしますが。
話をする時は相手の目を見て
最近、子供とお互いに目を見ながらじっくりと話し合ったことがありますか?「親子で子供と目を合わせるなんてお互い照れくさくて」と言われる方も必ずや多いのでは。
しかし、現実には案外子供の話をちゃんと聞いていないことが多いものです。
確かに、親から子供へは何かと頻繁に話しかけているかも知れませんが、子供からの話をじっくりと聞く機会は多くはないのではないでしょうか。
「今ちょっと忙しいから後でね」、とそれっきりになってしまう。一方、子供の方も『どうせ自分の話なんて」と自分から話すことを放棄してしまう場合も多いようです。
これを繰り返している限り、「大切なことはちゃんと話してくれなかったらダメでしょ」と怒っても何をか言わんやです。
「後でね」➡「ちょっとだったらいいよ」
子供の話に耳を傾けることはコミニュケーションの大切なひとつであることは明白です。子供たちは、親が考えているよりも話をしたい欲求があるのでは。
何かを言いたい時、相談したい時、その時に相手をしてくれなければ「やる気」を失くしてしまうのは当然です。「後でね」と待たすより、「ちょっとだったらいいよ」と時間を区切ってでも聞いて欲しいものです。
聞く気持ちがあることを示しさえすれば、子供はそれなりに話そうとするはずです。子供にとれば、内容そのものよりもとりあえず聞いて欲しいのですから。
そして、できるだけ子供の立場になって真剣に聞いてあげる態度がとても大切です。親の聞く姿勢も子供の自信づくりにつながるのではと思われます。
慎むべきことは、「わかった、もういい」と打ち切ってしまうことです。例えわずかの時間でも聞いてあげることが子供にはうれしいのです。
特に、時間を区切って聞いてあげることは、子供にとって話したいことを整理し、ポイントをまとめながらきちんと正確に伝える訓練にもなるのですから。