感情移入は信頼関係づくりのメチャクチャ効果的な手段

 子供達に意欲の喚起を促そうといろんな話題を投げかける時、思いつきに任せるよりはきちんと話の順序や組み立てなどは予め準備しておく方がいいと思います。話の展開がありきたりで内容に工夫がなければ子供達も退屈で何らの印象も与えられないと思います。

 感動を与えるためには段取りが必要

 やはり相手に何かを感動として印象深く訴えるためには「えっ!」と驚く意外性というものが必要になってきます。当たり前の内容を並べるような単調な話し方では感動など生まれるはずがありません。大人でも子供でも勉強でも仕事でも何をするにしても準備段階として段取りというものは最小限度用意することが必要です。しかし、 “感情移入は信頼関係づくりのメチャクチャ効果的な手段” の続きを読む

感動の意味を子供に伝えることが今の時代一番の親としての責任かもね

 子供達が日々成長する過程において、そこには例外なく必ずという障害があります。その時の状況に応じて大きかったり小さかったり、高かったり低かったり、乗り越えられたり跳ね返されたり実に様々です。まるでいろんな障害が置かれた道を突き進んで行くようなものです。

 障害とは試練でありその様相は一様ではない

 それらの障害はであったりであったりする場合もありますが、突き進む中で達成しなければならない目標目的であったり、いずれにしても試練であることは間違いないでしょう。しかも、その壁はとても厚く高く頑丈で崩れにくいものもあります。くじけそうになる辛く苦しい気持ちにつぶれそうになりながら、それでもめげずに耐えて何回もトライする、そしてやっとの思いで壁を乗り越えていく様子に思いをやりながら親は親としてわが子にエールを送り続けるのでしょう。

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子供の成長を比べない子育て~幸せになる

  エナジェティックに!子供の健やかな成長
 を願って汗を拭き拭き、がんばって!

 1.比較が先か、競争が先か?

 世の中、ここかしこで大なり小なりの競争の氾濫です。概して、競争は、己と他人の何かを比べ相手より優越になること。従って、比較がなければ競争はありません

 確かに、人類の今日の進歩である比較と競争に良因することは確固たる事実です。

 しかし、人間の不幸もまた比較と競争が悪因であることも否定することはできません。

 強いて、そして勉め(努め)させるもの?

 受験競争も周知のとおりです。子供の成績の程度に目を凝らし、上昇か下降か横ばいかを探り、結果的に親として子供に勉強を強要する。

 子供は、勉強を自発的ではなく強制的に強いられるために反転として結果のみの一喜一憂にこだわり、奮わなければ自分がみじめになり本来持ち合わせているはずのやる気が萎える一方です。

 他人と競争する時、それが公正でありそれとともに相互の人格を高めるものであればよいとしても、単に自分の優越を煽り自己満足に帰する類は愚行です。

 これはご家庭におかれても躾の一環として諭して下さい。

 2.木の上に立って→遠くから、見る→観守る、それが
   「親」

 肢体が不自由な児童や生徒の学校では、

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普段使いの親子で決める目標を120%活かすためには

 仕事柄、毎日例外なく私の周りは子供だらけ。日々彼らが発する表情や行動、雰囲気、一日たりとも同じ日はありません。子供たちの心が実に新鮮で柔軟である証でしょう。そして、受け取り方が素直だからこそこちらのアドバイスがうまく伝われば大きな変化を見せることも多々あります。時には涙を流すほどストレートに感動し新たな意欲を高めてくれます。これこそ教師冥利に尽きることであり40数年教壇に立たせてくれた原動力でもありました。

 親は子供を感動させるネタ探しをする

 家庭においても同じです。親はこんな子供たちの心を揺さぶるような「ネタ」を常に探して欲しいと願っています。テレビ新聞ラジオなどのメディア、パソコンやスマホなど現代は情報収集に事欠くことはあり得ません。常に感度の良いアンテナを張り的確な生きた情報を取り込むという作業を地道に続けることも子育ての必要な条件ではないでしょうか。必死になって探せば苦労したかいがあったと言えるほどの感動を与えるネタは必ずあるものです。例えばこんなネタが・・・。

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親子は家庭教育の先生と生徒であると思った出来事を今だから話します

 誰もがすすめるみんながやってる子育ての効果的方法、または必ず成功するとっておきの教育の仕方、こんなものなどあるはずがありません。およそ教育たるもの、万人一人一人異なる個性がある限りそのやり方は共通するものではないのです。

 子育ての仕方に唯一無二なるものはない

 私は今までの現場第一主義の実践教育の積みかさねから得た私なりの価値観に基づく指導を行ってきました。各家庭においても子育てに対する考え方や躾の仕方などは一様ではなく、絶対これが正しい方法であると断言することはできないはずです。客観的に見てその人その場所にふさわしい方法で行われているのではないでしょうか。

 感情の出所がわからず混乱しやすい

 ただし、多くの親や子供たちと話し合ったり懇談する時いつも思うことがあります。特に注意したり怒ったり他よりは感情的になりやすい時、これは一体教育的配慮に基づいたことなのか、または単なる腹立ちまぎれに過ぎないのかどちらの感情なのか混乱しやすいということです。特に自分の気持ちを抑えられずに捨て台詞をはき散らす最悪のケースも決して少なくありません。きっと教育的効果などあるはずもないでしょう。

 親が感情が高ぶるほど子供の抵抗は想定外になる

 大人である親は子供への言い分を感情もろともぶつけられて気持ちがすっとするかもしれませんが、一方的に口(?)撃される子供は気持ちの持っていきようがないのです。やはり子供も心の中は親の言葉を受け止めながら感情が高ぶっていることでしょう。しかし、よく考えてあげて下さい。子供だからこそ筋道立てて理屈で反論できないのです。なぜこんなに怒られるのかという自覚すらできていないかもしれません。結果として、釈然としない不満がたまって反抗的になったり想定外の行動をしたりするのです。

 怒る理由とその目的をきちんと説明することが子供を怒るマナー

 私もこのようなケースの経験は語るに余りあります。子供を怒る時、その理由や目的は何なのかはっきりと確認しながら子供に接して欲しいものです。回りくどく話すのではなく子供レベルになってきちんと筋道立てて説明してやれば理解することができると思います。怒り感情のままの説教は子供の気持ちの中に不満を残し何らの解決にもなりません。

 あくまでも、教育=教+育。ただし、そのやり方は一様ではない

 子育ても家庭内で日夜行われる立派な教育の一つです。ありふれた言い方でありながら、確かに教育=教+育であると信じて疑わないのですが、「教」の方はどちらかというと何か一方的にさせる的な意味合いを強く感じますが、「育」はサポートする、導く、手を添えるという感情的な行為であると考えていいのではないでしょうか。いずれにしても子育てという教育の仕方は、子供が自分で考えて行動することができるように導く力を養成することであり、子供が努力しながら力を得るということである。つまり、これらの要素はどちらも必要であるということです。

 子育ての究極の目的はやる気を掘り起こすこと

 しかしながら、ややもすると親や教師は子供生徒に対して上から目線で接し、いわゆる強制感の強い指示命令口調が飛び出します。これは、相手の心をとらえ、その根本に相手を深く愛する「情」というものが欠けている気がします。結果はどうであったとしても、重要なことは、その結果に至るまで子供がヤル気を持って自分で考え行動できるように育てたかということです。相手が大人子供を問わずやる気を出させることができれば、例えそれが困難そうであっても自主的に取り組みがんばるようになるのです。

 子育ての上手い下手は親子相互の認識の相違による

 教育というのは、やはり「教」と「育」のバランスとそのやり方次第であると思います。とは言っても確かに肝心なのはその具体的な方法です。口先だけでああやるんだこうやるんだと言うのは簡単ですが実際子供達に言い聞かせて納得させて行動させることは大変難しいことです。しかし、視点を変えて考えればそれは結局私たち教師や親が良かれと思って理想ラインに基づいて一方的に子供に望んでいることです。子供が自分から希望することではありません。これが勉強に関することなら、させられているという気持ちが強ければ本当に勉強しようとはしないでしょう。このことを理解し納得することが大切です。

 感動を与える小言は子供を発奮させる

 親の言い分を伝えながら子供の心を揺さぶるくらいの覚悟がなければ、ただの小言の連発です。子供は、ひしひしと心で感じていないから頭でわかっていても実行ができないしやろうと発奮できないのではないでしょぅか。理屈で勉強しなければと思うより、第三者的な立場から感動するようなことを与えられると自分からがんばる気持ちが沸々と沸いて来る感覚を忘れてはいけないと思います。子供に何かを感じさせ感動させ心を動かせる手段を絶えず模索する習慣を大人も身につけることが必要なのではないでしょぅか。